聞章 なんとなく預言者
広平はシャワー室にいた。
上は上着を着る前の黒いシャツー枚になり、人から借りた学生服はきちんとたたんで棚においてある。
今は濡れた髪をタオルでふいているところだ。落とし切れていなかった染髪剤が白いタオルを薄く汚す。
「いや〜、大変だね、有名人は〜」
いつの間に入ってきたのか、よく知った声がする。タオルと髪のすきまからそちらを見ると、彼は広平が外したカラーコンタクトの入ったケースを両手で弄んでいた。
「クレープ屋のバイトはもういいんですか? 先生」
「ああ。完売したからな。十分客引きしてやった。あんだけ女の子に集まってもらえると俺もうれしい限りだったね。
ま、広平君にはかなわないかもしれないけどねー」
広平は、タオルと髪で相手には見えないだろうなと思いつつ顔をしかめた。
「できれぱ先生には、名前じゃなく苗字で呼んで欲しい――と、何度も言ってると思うんですが?」
「やーだね。広平君を名前で呼べるのは、広平君の家族と俺だけの特権だからな」
その特権、今日でもう一人増えたんだよ。
広平は口中で咳いた。
もっとも、彼女には、名前も苗字も二度と呼んでもらう機会がない気はするけど。
少し迷ってから、広平はタオルで髪をふくのを再開してから言った。
「失恋しちゃいました」
コツン、とプラスチックが床を叩く音。
目をまん丸にした彼の顔を想像し、こっそりと口元をゆるめる。
「……ぅっそだろー。広平君が失恋て……髪の色と目の色隠しただけで、そんなに変わるかぁー?」
「かも知れません、さすがに知り合いに会うのは避けたんですけど、普通に歩いていて誰にも気付かれませんでしたからね」
「いや、それにしたって……」
私がふられるのはそんなに意外かな?
いつもひょうひょうとしている相手があわてふためく声を広平は楽しんでいた。
せっかくだから、彼女と話したとき以外、キャラもののお面を被り続けていたことはないしょにしておこう。
「つかその前に、お前、好きな女なんかいたのかっ!?」
「今日一目ぼれしました」
「なにっ!?」
コツン、とまた同じ音。せっかく拾ったケースをまた落としたらしい。
「広平君に一目ぼれさせるとはなー。
いったいどこの美女なんだ、そりゃっ!?」
驚いたというより、そっちの興味だったらしい。
「ごく普通の子ですよ」
言いながら、あめをほおばった彼女を思い出す。
「でも、笑顔がすごくきれいな人でした」
好きな理由を、教えてくれた時の顔を思い出す。
「すごくうれしそうに、好きなものの話をするんです」
気付いてしまったことを、思い出す……
「そのおかげで、『好きな理由』が分かっちゃって失恋、になっちゃったんですけどね」
「はあ? わけわかんねーなあ。
笑顔が魅力的な表情だってのは、たしかだど思うけどな」
付け足すようにそう呟く。
先生も、誰かのことを思い出しているのかな?
「それから……」
「それから?」
正次はタオルを洗濯用の袋に放り込み、壁にかけてあった上着を羽織った。
「なんとなくだけど、彼女をずっと前から知っている気がしたよ。
これから、ずっと会うことはないのだけれど、とても深い関係になるような予感もね」
「…………」
「あ、すみません、先生。なんかまた口調が……」
「お前、本当に精神の病気じゃねーの?」