「このバットの感触……半年ぶりか〜」
文菜は、手渡されたバットのグリップを、何度か握り直しながら呟いた。
小さい頃は男女の区別なく遊んでいた商店街の子供たちも、歳が上がるにつれて男子は男子、女子は女子と分かれて遊ぶようになっていった。そんな中、文菜は女子の中で一番長く、正次との野球を含めた「勝負」につき合っていた。
というか。「勝ち逃げするのか!?」と言われるのが悔しくてつきあってやっていた。
よくよく考えてみると、そんなセリフに対抗してみせるのも大人気ない。だからこそ、そんなことは中学に入って卒業しようと心に決めたはずだったのだが……
――ま、いっか。
文菜はバットのグリップをしっかりと握り、バッターボックスに入った。
相手チームのビッチャーは正次だ。
「文菜。悪いけど、手加減しないからな」
普段「文菜〜♪」と叫びながら駆け寄ってくるニヤケ顔とは、全く違う真剣な面持ち。
いや、『普段』というのは正次が、「オレ……文菜のこと好きかもしんねー」と、ある時突然何気なく、ふざけたことをほざいた中学入学間もなくのある日からだ。
生まれた時からと言っていいほどのつきあいがある文菜としては、自分に妙に激しい対抗心を燃やし、真剣につっかかってくる正次の方が見慣れている。
この川原での野球の試合はもちろん、小学生の時はテストのたびにどちらがいい点をとれるか挑んできたし、マラソン大会や球技大会でも、どちら(のチーム)がより上位に入るかで競ってきた。給食の早食い競走をしたこともある。
「まあ、あれは健康に悪いし、行儀最悪の正次とする勝負じゃなかったのよね」
勉強やスポーツ関連で文菜の敗北はなく、それ意外の勝負で敗北を喫した時はへ理屈をこねては口で勝利してきた。
それが正しい二人の姿のはずだった。
だったのに、正次に何があって自分に勝負を仕掛けるどころか好きだと叫んで追い回すようになったのか、文菜にはさっぱり分からない。初めなど自分をからかっているのだと信じて疑わなかった。
いや、今でも「からかわれている」可能性を捨て切れない。
もしくは、油断させるための作戦……?
だとしたら、数カ月ぶりにやってきたこの「勝負」こそ負けるわけにはいかない!
文菜は正次を鋭い眼光でとらえ、バットをぐっと握り締めた。
『まっちゃーん! がんばってーっ!』
複数人の唱和が降って来たのは、そんな時だった。
振り仰いだ先――土手にいたのは、文菜たちと同じ制服を来た女子数名。名札の色から三年の先輩だと分かる。
「あっ。ありがとーっ!」
正次は真剣さをほーりだし、笑顔になって彼女たちに手を振った。
「……知り合い?」
思わず尋ねた文菜に正次は視線を戻し、
「知り合いっつーか……!?」
なぜか顔を真っ青にした。
「と、ときどきああやって応援して、きて、くれるん……です」
「ふーん……じゃ、せっかく応援してきてくれるお姉さんたちの前で赤っぱじかかせてあげるわ。来なさい!」
文菜は予告ホームランのポーズをとったあと、バットをしっかりとかつぎ直した。
「そ、それじゃ行くぞ……」
なぜか腰の引けた様子だった正次は、首をぶんぶん振って真剣な表情を取り戻した。
振りかぶり、投げる。
文菜は妙に澄み渡った神経で冷静に球跡を追い、バットを振った。
っきーんと小気味よい音がし、間髪いれずに
ごす、っと不吉な音。
数瞬後に
どさ
正次は、文菜の打球を顔面に食らい、後頭部からぶっ倒れた。
文菜の打球は、十本に九本の割合で人がいる方へ飛んでいくことで有名だった。
「とはいえ、あそこまできれいにヒットしたのは初めてじゃないか?」
「うん……わたしも今回はあせった。本気で高飛びの方法考えそうになった」
含みをもった問いかけをする一枝に、文菜はその意図にまったく気付かず返事をした。
倒れた正次を囲み、グラウンドは騒然となった。
やれ医者を呼べだの、それ動かすのはやばいだの……
二分ほどして正次がむくりと起き上がった日には、ゾンビだキョンシーだのと大騒ぎ。
「なんでそーなるんだよ……」と、正次は鼻血すら出ていない鼻と、後頭部を押さえてぼやいた。小さいころからそうだったが、彼は人一倍体のつくりが頑丈だ。
きっちりこぶもできていたし、大事には至っていないだろう。
たぶん。
念のために正次は医者に行くことになり、今日の野球集会は解散と相成った。
正次は文菜(たち)といっしょに帰りたいと言っていたのだが、結局、心配して土手を降りてきた先輩たちに「早く早く」と急かされて医者に連れていかれた。
「まっちゃんなら大丈夫だよ〜。学校の階段から転げ落ちたときもぴんぴんしてたし」
「あー、あのときは、『ふざけてクラスメイトを突き落とした少女F、過失致死で逮捕』って見出しが頭を踊った」
文菜、十二年間の人生のうち、正次を殺しかけたこと通算十二回。
「いや、私が言いたいのはさー……」
質問の「含み」に気付いてもらえなかった一枝は、違う方向から攻めてみることにした。
「文菜知ってた? まっちゃんがけこうモテるって」
「…………………………………………へ?」
たっぶり十秒近く沈黙した後、文菜は真顔で間抜けな声を上げた。
「うーん。やっぱり知らなかったかー」
「知らないもなにも……新手の冗談?」
「ううん。本当のことだよー」
首をかしげる文菜に、洋子も肯定の言葉を告げた。
「野球部の応援しに来てる人たち、まっちゃんばっかり応援してる人多いんだよー」
「そりゃあ、正次がピッチャーだからでしょ?」
「ピッチャーだから、目立ってモテる、っていう風にもとれん?」
「一年生でレギュラーだしねー」
「じゃ、なに? 正次、一年生ピッチャーだ、ってだけでもててるの!?」
「だけってことはないと思うけどね」
野球のポジションによる人気の落差を、漫画やなんかを思い出してそういえば」と納得しかける文菜に、一枝と洋子はさらに続ける。
「まっちゃん、女子の先輩からよくあいさつされてるよー。うちの部活の先輩が、まっちゃんのことかわいいってウワサしてるの聞いたことあるし」
「文菜と張り合ってたおかげで、成績も悪くないしねー。まっちゃんに勉強教えてもらったって自慢してる子とかもいるんよ」
「ま……」
文菜はそれだけ言って言葉を失った。
言いたかったのはこんなセリフだ。
正次がかわいくて、勉強教えてもらうと自慢になるうっっうっ???
なんだか頭が痛くなってきた。
信じられない。
あの正次が、女子にもてている?
かわいい、ったって、背ひっくくってガキ顔なだけでしょ?
勉強できる、って、わたし、あいつにテストの点で負けたことないっすよ?
なにより正次は、デリカシーのかけらもなく自己中だ。自分と文菜の運命がどうとか道端で大声で語ってくるような恥ずかしい奴なのだ。
頭を抱え、文菜は叫んだ。
「わ、分からない! 正次をいいと思う人たちの神経が!!」
悪夢にうなされているかのように顔をしかめる文菜を見て、一枝は残念そうに眩いた。
「……あるかと、思ったんだけどなー、脈」