人の来ない多目的教室は格好の逃げ場所だった。 冥波は何度ここで時間を潰したことがあるか分からない。 他にも避難場所はあり、先客のいたそこを離れて彼は別の避難所へ向っていた。 広い九星学院には盲点などいくらでもあるのだ。 ……どうして奴とは、三年とも同じクラスなのだろう……。 分かっていることだ。九星学院創立者であり、今なお理事を務める家柄の奴は、 学校の新施設の指図から購買のパンの種類まで自由自在。クラス分けに口をはさむことなど 容易だろう。 奴のいる教室に、行きたくなかった。 今は奴と、顔を会わせたくなかったから……。 昨日の昼休み、土波を呼び出す放送を聞いた。 生徒会の仕事だろうと思いつつ、気になって覗きに行った。 そして…… 今思い出しても熱くなる。 奴が土波の唇をむさぼる姿…… さんざん俺に誓いの言葉を立ててきた奴が…… 今奴と顔を会わせたら、理性がとんで体裁も分別も何も構わず、怒鳴り散らしてしまい そうだった。 「……っ」 冥波は手の痛みに顔をしかめた。 今になってじんじんと痛み出した右手。 次の逃亡先――増設途中で放置されている階段に冥波は腰を下ろした。 十二分に広い校舎をなんのために増築するのか、甚だ疑問な場所だった。 赤い右手の甲をじっと見つめる。 止血するのが面倒だった。 ただ、じっと見つめる。 流れる赤が、長袖のはしに染み込んで染めていく…… 「冥波、ホームルームをさぼって何してるんだい?」 「!」 はっとして声の方――階段の下を見た。 紫の瞳が、穏やかに微笑んでいた。 「だ……」 顔がほころびそうになり……踏みとどまった。 腹を立てている相手を見て、なぜ笑わなければならないのだ! 「こんなところで何をしてるんだい?」 階段を上りながら問う天波空〔あまなみ そら〕に、冥波はそっぽを向いた。 「お前の顔など見たくない」という意思表示だ。 天波はかまわず冥波の隣に腰を下ろす。 「駄目じゃないか、ホームルームをさぼっちゃ」 まるで子供に諭すような口調だった。 そう言うお前こそ、さぼってここに来てるじゃないか。 「――その手、どうしたんだ?」 天波は冥波の右手に気づき息をのんだ。 「見せてみろ」 「触るな!」 天波の手が触れようとするのを、冥波は思い切り遮った。 今のお前になんか、触れられたくない。 「見せろってば」 冥波は身を引く。 しつこくつめよる天波。 「冥波――!」 天波は一瞬、仕方ないな、といった表情をし―― どさっ…… それ以外本当に仕方なかったのか? 彼は冥波を押し倒した。 冥波は絶句する。 それを見て、 「なんだ」 天波はにっこり微笑んだ。 「やっぱりこうされたかっただけか」 「ばっ――ちが……」 真っ赤になって言う冥波の言葉を天波はもう聞いていない。 身動きのとれなくなった冥波の右手をとり、自分の口元をよせる。 ちゅりっ…… 「……っ……」 痛みとは別の感覚が、手の甲から全身にはしった。 目を閉じた天波が、冥波の手の血を舌でふきとっていく…… ――なんで……お前はそんなに…… 冥波は恍惚感の中、天波をじっと見つめて呟いた。 ――そんなに、綺麗なんだよ…… 「……何か言ったか?」 作業を中断し、天波が尋ねた。 「なんでもない」 言って冥波は、顔だけでそっぽを向く。 「そうか……」 天波は再び冥波の手を嘗め始めた。 冥波はそれを横目で見つめる。 甲、中指、人差し指、その間――血のついていないところまで、それはもう丁寧に……。 突如、冥波は昨日これと同じ天波を「見ていた」ことを思い出した。 そうだ。俺は何をしている! あんなに腹を立てていた相手にっ。 そのことを思い出すと、冥波は天波から自分の手を取り上げた。 「……あれ? 痛かったかい?」 不思議そうに尋ねる天波。 冥波は無言で天波を睨みつけた。 「……どうしたんだい?」 天波は微笑んだまま小首をかしげる。 「……昨日、土波と何をした?」 土波がいれば「と」ではなく「に」だと訂正するところだろう。冥波も先ほど土波に 「八つ当たり」と言っているからには、そのことが分かっているのだろうが、 そんなことを気にしてまで言葉を選びはしなかった。 「やっぱり見てたんだな」 「やっぱり、だと?」 「視線を感じたんだよ」 「は、何が視線だ。いつものことじゃないか!」 そう、いつものことなのだ。天波が生徒会室に人を呼び出すことは。その度に、 冥波が心配で覗きに行ってしまうことは。 そして、その予感が的中することも……数回。 天波がそうして自分をからかっているのだと冥波は分かっていた。わざと他の相手に 手を出して、怒らせて……。 けれど、今回は違う気がした。 天波は、本当に自分より土波を選んでしまったのではないか、と。 不安でたまらなくなって、土波に当たった。 「お前は俺のことをなんだと――」 最後は消え入りそうな声になった。 いつもと同じならばいい。けれど、そうでなかったら…… 「決まってるだろ」 天波はそっと、冥波の頬をなでた。 「……」 無言で天波を見つめる冥波。 不安げに。飼い主に置き去りにされる子犬のように。 「すごく、きれいだよ、冥波。 他の誰よりも、 他のどんな時よりも――」 この男は…… 「……あいかわらず、嫌な趣味だな」 いつもと同じセリフと展開。 それが分かって、冥波はほっとして目を閉じた。 「――その顔が、見たいんだよ」 その日、天波と冥波の二人が教室に向うことはなかった。 ,,, 見えない明日 END
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