その頃…… ウワサの梨野は隠れていた。 三年A組の教室の前、の廊下、の手前、の曲がり角で。階段を降りてすぐの所だ。 一年生にとって、三年生の教室のある廊下に足を踏み入れることは、 なかなかに勇気のいる行為だったのだ。 少なくとも梨野にとっては。 壁のところから顔の半分――つややかな黒髪の前髪、ぱっちりと大きな 澄んだ黒瞳をのぞかせて。 (うう……ここまで来ちゃったけど、どうしよう……やっぱり葉ちゃんに ついてきてもらえば良かった……けど、それじゃ進歩ないし……) とか思って教室の方を凝視していると、突然ドアががららと開いた。 誰かが出てきた! ――のを確認することもなく、梨野は慌てて身をひるがえした。 巫女さんのように白い布で縛った黒髪が、しっぽのように宙をまう。 一年生のクラスのある三階ヘ――つまり、階段を駆け上がった。 そして、足音が消えるのを確認すると、再び階段を降りて先ほどと同じ位置に おさまった。 これで三回目。 こんな状態では、たとえ梨野が会いに来た相手が教室を出てきても、 気付かずにやりすごしてしまうだろう。 ……だろうと、梨野も分かってはいるのだが……。 「梨野さん?」 「!」 突然後ろから声をかけられ驚いて振り向くと、見覚えのある顔がそこにはあった。 眉目秀麗な金髪の少年だ(梅野との血縁は皆無です)。 梨野より頭一つ分は背が高そうな……よりかかったら、ちょうど胸のあたりに 頭をよせられるかな、ってなもんな男子生徒である。 二人がそんな状態になったら、さぞかし絵になることでしょう……なんて妄想を抱く 余裕も概念も梨野にはなかった。 「な、梨乃先輩! えと、あの……」 真っ赤になって、頭ぐるぐるで、爆発寸前の梨野は、必死で自分が 何をしに来たのか思い出そうとしていた。 けれど、頭はまっしろになり、言いたかったことは一億光年の彼方に すっとんでしまった。 しかし―― 「この前の話、考えて頂けましたか?」 梨乃先輩――梨野が昼休みに会いに来た目的の人物であり、新鮮学園の生徒会長である 梨乃笛矢に優しく微笑みかけられると、梨野は不思議と冷静さを取り戻していった。 生徒会長だからとか、美形だからとかではなく、もっと別の――まるで、 ずっと以前から知っている笑顔を向けられたような感覚がして、 人見知りの梨野は安心感を覚えるのだ。 これまで何度か言葉を交わしたが、その度に感じるこの感覚の正体が、梨野には 未だに分からなかった。 少なくとも、苗字が漢字一字違いで同じ発音だから、って理由ではないだろうけど…… 「梨野さん?」 「あっ、すみません」 再度呼びかけられ、梨野は我にかえった。 (こんなこと考えてる場合じゃないよね。今はとにかく……) 「あの、その話のことで今日はここに来たんです」 「それじゃあ……」 「いえ! その、とても光栄なお誘いですけど、やっぱりわたしなんかじゃ……」 「おまえか――――――――っ!」 どぴゅんっ! 廊下の窓をびりびり言わせるほどの大音量と風切る音が、梨野の言葉を遮った。 どんっ という新たな音がして、梨野の脳がやっと理解し取り上げた状況は、 クラスメートのかきのが梨乃の開襟シャツの襟をとっつかみ、壁に押しつけている光景。 「えっ、か、かきの!?」 かきのは驚く梨野の言葉を無視して、壁に押しつけた生徒会長を睨み上げていた。 ……首が痛そうな角度である。 「おまえか! 梨野をたぶらかしたのはっ!」 「た、たぶらかす……?」 突然壁に叩きつけられ目を白黒させていた梨乃が、その言葉を聞くと 形のいい眉を跳ね上げた。 「心外ですね。私が彼女を誘ったのはそんないわれをするものではありません!」 「開き直んなよなっ!」 「……あのですねえ……」 梨乃はこめかみに手を当てながら、 「君は、生徒会役員への推薦がたぶらかすこととイコールだと言うんですか?」 「……生徒……会?」 かきのは黒い目をぱちくりさせた。 「その様子だと何か勘違いしていた様ですけど、僕は彼女に、 後期の生徒会役員選挙出馬を勧めただけですよ」 かきのは汗をかき、つかみかかっている相手に問いかける。 「きょ……きょしゅつば?」 「生徒会役員の、選挙の、出馬です。彼女に生徒会役員にならないかと誘ったんですよ」 「ええっ! なんで梨野が生徒会なんかにっ!?」 「な、なんでって……」 勢いよく振り向くかきのの視線の先で、梨野は口ごもり…… 「僕の判断と先生方の推薦ですよ。学級委員としての仕事も、 しっかり勤めてくれていましたからね」 (もう一人の、ふがいない役員の分まで) そんな言葉が、梨乃の心の中でだけつけ加えられているとも知らず、 一年B組のもう一人の前期学級委員たるかきのは、梨野と梨乃の顔を交互に見比べた。 梨乃が言う通りだとしたら…… 「じゃあ、梨野の男って誰なんだよっ!?」 「はあっ!?」 かきのが大声で尋ねるのに、梨野は特大の言葉ならぬ声を上げていた。 「冗談だ」 きっぱり そんな音が聞こえるまでに梅野は断言した。 「冗談ー!?」 梨乃に誤解でつっかかったことを謝ってから(謝らずに行こうとしたら、 梨野に怒られた……)、かきのは、梨野と一年B組の教室へ帰った。 そのみちみちで梨野に男がいないことを確認したかきのが梅野たちに問いかけ、 返ってきた答えはそれだった。 「言ったでしょー。一度聞いてみたかったって。そのための伏線だったの!」 「ふつーにきけばいーだろーが――――――っ!!!!!」 かきのは、今日何度目かの大声を張り上げていた。 < 君の幸せのために : おしまい > |