「空がいい!」
長雨が続き、久々の快晴を拝んだ朝、彼女は唐突にうれしそうな声を上げた。
「空がいいです」
見上げていた青空から、こちらへと振り向く。
声のとおり、無邪気にはしゃいだ笑顔を浮かべていた。
「えーっと……なにが?」
僕は素直に問い返した。
彼女は気を悪くした風もなく、変わらぬ熱の高さで言った。
「この子の名前です」
小さな生命を育む、腹部に手をあてて。
*
「広平[こうへい]」という、「平」凡な名前が嫌いだった。
当時天波[あまなみ]家当主だった祖母が、天波家にとって戦後最初の子供だった僕に、相応の願いをこめて与えた名だという。
「広めよ平定」と、標語のようなものをつけて。
その経済力と人脈から、国の影の頂点とささやかれる天波家。で、あるからこその「いずれ頂点に立つ僕が『平和』ではなく、『平定』を行う」という、天波家にとっては相応、一般感覚からすればおそらく、実にたいそうな名前だ。
が、しかし、「こうへい」という読みは、「誰かが頂点に立って支配する」意味とは反対に、「みんな平等」の「公平」に通じる。
小学三年生のとき、学級長として喧嘩の仲裁を果たした僕に、「さすが広平君は公平ね」と言った教師の顔と名前を、僕は決して忘れない!
そんな僕が彼女と出会ったのは、「平凡」な見合いの席だった。
「今日会う人と結婚する」
なんとなく、そんな気がしていた。
外れるかもしれない「なんとなく」ではなく、
絶対に外れない「確信のなんとなく」。
この二つの違いは、子供のころからの経験でよく知っていた。
気の許せる相手――具体的にいえば、中学で出会ったある教師一人だけだけど――にしか話したことはないが、どうも僕には軽い予知能力があるらしく、「確信のなんとなく」は一度も外れたことがない。
で、その確信のなんとなくが「僕の結婚相手だ」と告げる女性は、天波家[うち]とは、会社、家ともにつきあいのある、さる名家のご令嬢。
高級料亭ご自慢の料理をはさんで、おとなしい柄の和服に身を包んだ長い髪の女性は、ガッチガチに緊張して挙動不審になっていた。
「わ、私などが、天波家の方とこ、こんな席に――い、いえ、その……」
僕よりも、「天波家」に緊張しているんだな、と思った。
(あ、ちなみにこれは、「確信」じゃない方のなんとなく)
そして、漠然と思う。
ああ、僕は、
名前のとおり、
「平」凡な結婚をするんだなぁ
と。
こうなると、絶対的な自信を持っていた「確信のなんとなく」に異を唱えたくなってくる。
中学一年のときに出合った初恋の女の子や、生徒会でいっしょに仕事をした子たち。インパクトや付き合いの深さからいって、彼女たちの誰かこそ、自分にふさわしい相手じゃなかったのか?
「確信のなんとなく」でそれはあり得ないと思ったからと言って、思いを告げてくれた相手まで無碍にしてしまったのは、間違いだったんじゃないか、と……。
そんな不謹慎なことを考えながら、断るという選択肢も選ばず、お互いの家の思惑によって引き合わされたのが何度目になったときだったか……
「峰ヶ崎[みねがさき]さんはどう思います?」
紅葉に囲まれた遊歩道。たしか、「あの枝がなくて、向こうの山が見えたらいいのにな」なんて、どうでもいいことに意見を求めたときだった。
つ、とうつむき加減でいた顔を上げ、「私は……」と緊張のためか、はたまた考えながら答えるからなのか、たどたどしく控え目な意見を述べる。
常の彼女ならそうする所を、なぜだか今日は返事をしてくれない。
うつむいたまま、足すら止めてしまう。
「峰ヶ崎さん?」
「……さい」
「え?」
うつむいたままだったが、今度は声だけははっきりと彼女は言った。
「名前で呼んで下さい!」
「?」
何を急に言い出したのかと思っているうちに、彼女はさらに畳みかける。
「あ、あの! 私たち、結婚を前提にお付き合いしてますのに、いつまでも苗字じゃおかしいんじゃないかって――いえ、その、私が勝手にそう思っているだけなら図々しい意見だと思うのですけれど、こうして何度も会って頂けている以上はそういうことだと思……」
どんどん早口になって、どんどん声が小さくなり、しまいには、また、聞こえなくなってしまった。
「何度会っても」、当たりさわりのない受け答えに終始していた彼女が見せた、初めての本音……?
そう思うと、少しうれしくなってきた。
「そうだね」
でもって、「ですます」口調を使うのも忘れていた。
その呼び方は、軽薄だからやめるようにと家族に言われてやめていたことも。
「千鶴[ちづる]ちゃん」
とたん、彼女はその場にしゃがみ込んだ。
「! 千鶴ちゃん!? どうしたの? 気分でも悪く……」
あわてて自分もしゃがみこんで尋ねると、彼女は顔に両手を当てて、いきおいよく頭を横にふる。
「え、じゃぁ、どうして……」
「不意打ちです」
彼女の、か細い声がどうにか耳に届く。
「不意打ちって……」
「だ、だって、名前になったとたん……ずっと『さん』でしたのに……」
「え――」
……どうやら彼女は、突然「ちゃんづけ」で呼ばれたことにひどく照れているらしかった。
え、えーっと……自分はそんなに恥ずかしいことをしたのだろうか? と、僕にまでその感情が感染してくる。
それと同時に、
初めて、彼女を彼女として、愛おしく思った。
ずっと苗字を呼び続けていたのは、僕自身が、彼女は僕を家の名前でしか見ていないのだと思いこんで張っていた意地。
そうではないと教えてくれたのは、彼女が自分の苗字ではなく、名前を読んでほしいと言ったこと。
そう、理解して。
「――じゃぁ、千鶴ちゃん」
もう一度そう呼ぶと、しゃがんだままの彼女がびくりとふるえる。
我ながら性格の悪さを自覚しながら、でも、してもらいたいことがあって僕は問う。
「僕のことは、なんて呼んでくれる?」
一瞬の沈黙の後、彼女は僕の願いをかなえてくれた。
「広平君」
恥ずかしそうに、けれどちゃんと、僕の方を向いてほほえんで。
……といった、思い返してみるとかなり恥ずかしい出来事を経て僕と千鶴は結婚する。
「名前で呼ぶよう助言してくれた高校時代からの友人です」と、中学の生徒会でいっしょだった子を紹介されて僕らしくなく動揺する(あの中で唯一告白してくれた子だったし……)、なんてこともありながら。
幸せな結婚、幸せな新婚生活、幸せな子供の誕生。
そりゃあ、そうでもない時もあったけれど、振り返って、おおむね幸せといえる月日が流れていった。
「いつか大きな何かが起こる」
そんな、不明確な「確信のなんとなく」を感じながら。
せめて幸せでいられるうちはそうであろうと、思い出したように自分に言い聞かせては。
そして――
「広平様! 奥様! 空様が――」
大切な息子に、その発端が現れる……。
小さな子供に不釣り合いな大きな部屋、大きなベッド。
自分もそうだったから、それは天波家の者として当たり前のことだと思っていた。
その、天波家の子供にとっては当たり前の空間の中で、彼は泣き叫んでいた。
「み、みんなが――いろんな人が――
ぼくを――、わたしを?
いろんな名前で呼ぶんです」
真夜中、使用人に呼ばれ、慌ててその部屋に駆け込んだ僕は、思わずその場で足を止めた。
「わたしを頼って――
まかせてって、言って、出ていく人もいた。
助かった人もいたけど、たくさんの人が――」
……見覚えがある。
そう、思った。
今まで感じてきた、「確信のなんとなく」。
それらはすべて、「見覚えがある」からこそ、
「そうなると確信していた」んじゃぁ――
「わたしが――ぼくがなにもできなかったせいで、みんなが――」
「空!」
脇を通り抜けた風圧と、凛と響いた声で我に返った。
僕より遅れて部屋にたどりついた彼女は、我が子の様子を見るなり彼に駆け寄ったのだろう。
「空」
我をなくし――そう、文字通り、自分が誰であったのか、分からなくなっていたのであろう彼を抱きしめ、彼女は彼の名前を呼ぶ。
「あなたの名前は空。
お母さんたちがつけて、いつも呼んでる名前ですよ」
微笑んで、狂乱をとめた彼に問いかける。
「忘れちゃった?」
彼は彼女をだまって見つめ返し――
……なんて、傍観者をしていたら、あとでお母さんにひどく怒られそうだ。
これまで動けずにいたことだけは、怒られるのが確定しているだろうけれど。
僕も空のもとへ行き、その頭に手をそえる。
「空」
まだ完全に我を取り戻し切れていない紫の瞳が、僕の方へ虚ろに向けられる。
「お父さんたちも教えたし、先生にも習ってるはずだけどなぁ。
名前を呼ばれたら、どうするんだっけ? 空」
「あっ――」
紫の瞳に、よく見知った生気が戻る。
「はい!」
いつか大きな何かが起こる。
それはきっと、僕たちを――特に空を苦しめる。
けれど、きっと、空は乗り越えてくれる。
お母さんがつけてくれた、名前のように。
*
すみきった青空のように、この子自身も、まわりの人も幸せにしてくれますように。
時には雨や嵐もあるけれど、
やまない雨などないと、知っている子に――
<君の名をつけた女:完>