さえきち 子犬は気まぐれ

子犬は気まぐれ


 ここに一人の魔法使いの少年がいる。

 といって、彼がこの話の主人公なのではないし、額に稲妻マークがあるわけでもない、いたって平凡で、たいして出番もない魔法使いの少年である。

 彼には好きな子がいる。

 魔法使いの彼は、その子が自分を好きになってくれる魔法を考え出した。

 けれど、いきなりその魔法を使って成功するかどうか分からない。

 そこで彼は考えた。


 誰か他の人に、この魔法が効くか試してみよう







「乾せんせーいっ!」

 月曜日、大安吉日、快晴の花丸の日。

 さわやかな朝の日差しの中で、乾圭人は今朝の星座占いの内容を思い出した。

 曰く、

『今日はあなたのラッキーデイ。気になるあの子と急接近できるかも』

 ――ああ、まさにその通りの一日が始まるのかもしれません。

 乾は後ろからかけられたたった一言に感慨深くそう思い、しっかりと、最高の笑顔を作って振り向いた。

「おはようございます。昂太君」

 学生服姿の小柄な少年が、片手を振りながらこちらにかけてくる。

 かわいらしい笑顔の少年が……

 サッカー部のエースである佐伯昂太の脚力は大したもので、彼は瞬く間に乾の側までやって来る。

 そして、

 そこでたん、と地面をけると、長身の乾に抱きついた。




 どさっ。

 乾は持っていた手提げかばんを取り落とす。

 脳の回路が一時停止した。

 一体何が起こったのか?

どうにか脳を再起動させた彼は、使用者をいらだたせる旧型のパソコンのような速度で今の状況を把握していった。


 コウタ・・・クン・・・ガ・・・ワタ・・・シニ・・・・・・・・・・・・


「乾先生……」

 昂太のささやき声が、乾の耳元に熱っぽい息を吹きかけた。

「どうしたの? 何か言ってよ」

 すねたような声。

 乾ははっとする。昂太が何か言えというのなら、自分は何か言わねばならない!

 そう思い口を開く。

「……あっ……」

 ……せいいっぱいだった。

 毎晩のように夢見てきた昂太との甘いシチエーション。

 けれど、それがあまりにも唐突すぎて――

「なーんだ。つまんないのー」

 そう言って、昂太はすとん、と地面に下りてしまう。

 ただし、腕は乾の首にまきつけたままだった。

 未だ呆然としている乾の顔を下から覗き、かわいらしい顔の首をかしげる。

「せんせー。本当、どーしちゃったのー?」

 乾は何も応えられなかった。

 ショック――いや、いい意味でのだが――からまだ立ち直れない。

 何も言わず、眉一つ動かさない乾の変わりに、昂太の表情が変わった。

 眉尻を思い切り下げたのだ。

「せんせー、オレのこと、嫌い?」

「まさか!」

 乾は叫んだ。

 自分が昂太を嫌っているだなんて、そんなことあるはずがない! ずっと、ずっと、その反対の思いを胸に抱いてきたのに――

「よかった」

 ぽす。

 泣きそうな顔がにっこり笑顔を浮かべたかと思うと、昂太は今度は乾の胸に顔を押し付けた。

 再び抱きつかれた乾は、せっかく戻ってきた声をまた忘れそうになる。

 けれど、どうにか耐えて昂太に尋ねた。

「こ、昂太君、」

 声はしっかり上ずっていたが。

「今日は急にどうしたんです?」

「急に?」

 乾のシャツに額を押し当てたまま、昂太はうらめしげな瞳で乾を見上げた。

「急になんてひどいよ。オレ、ずっと乾先生のことこうしたい、って思ってたのに」


 ――ずっと!?


 うれしさのあまり頭がくらくらした。

 思わず目頭が熱くなる。

――そ、そう、だったんですか……。昂太君も、私のことを――


 感極まった乾は両脇で所在を無くしていた両腕を振り上げ、昂太を抱きしめた。

 ――私はこの日を生涯忘れません!

 心の中でそう叫びながら。

「せ、先生、痛いよっ」

「あ、ああ、すみません!」

 乾は慌てて腕をどけた。

 思いが成就した途端、相手を窒息死させる所だった。

「あ、腕どけなくていいよ」

「えっ?」

「ごめん。思わず声上げちゃっただけだから。……もっと触れてて」

「は、はい……」

 乾は昂太が言うままに、再び小さな体を抱きしめた。

 ――もっと触れたい――

 昂太の白い夏服の背中にそっと指をはわせながら乾は焦がれた。

 この布地の下に、その奥に……

 一方で昂太の指もまた、首筋からその上へ――乾の唇に触れてきた。

「せんせー、オレ……」

 キーン  コーン 


 無情な響きが乾の体を打った。

 朝のHRの予鈴……。

 ――このままというところで……なんて忌々しい音色でしょう!

 乾はため息をついてから、昂太を学校へ行くよう促そうとした。

 乾が彼の方を向く前から、昂太は乾を見上げていた。

「先生、これから学校行けって言うの?」

 熱を出した病人のような瞳で。

 彼の左手はしっかりと乾のシャツを握り締めている。

 右手は――

「オレ、今日は1日せんせーといっしょがいいな」

 そう言って、昂太の右手は乾の唇をなでた。










「昂太君、いいんですか?」

 乾は、もう何度目になるか分からない質問を繰り返した。

「いいよ」

 昂太も同じ答えをあっさりと返す。

「だから、ほら……」

 白いシーツの上に座った昂太が、乾をおいでおいでする。

 ここは乾の部屋だった。

 普通の教師ならば、とても家賃に追いついていけないであろう高級マンションの一室――そこが、しがない一教師であるはずの乾の住居である。

 彼が昂太をそこに招くのは、まだ二度目であった。

 乾はネクタイをゆるめながら、ぎこちない動作で昂太へ歩み寄った。

 最初は、

 ただ驚いて、うれしくなるばかりだった。

 今は、

 何かがおかしい。

 そう思えた。

 ずっと欲しくてたまらなかった昂太が手に入るのはうれしい。

 けれど――ずっと欲しくて、それでも手に入らなかった昂太が突然手に入るのは――

 乾は自分に都合のいいことならば何でも信じられるというような人間ではなかった。

『うまい話と人間は疑ってかかれ』

 それが実家の家訓だった。

 ――私は――このままこの状況を受け入れてしまっていいのでしょうか――?

 その思いが、乾の足を止めさせた。

 昂太のほんの一歩手前だった。

 立ったまま、乾は昂太を見下ろす。

 昂太は、何の疑いもない表情で乾を見上げる。

 その両手がすっと伸び、乾の腕を握った。

「はやくー」

 大人におもちゃをねだる子供の表情が乾の迷いを吹き飛ばした。

 乾は倒れ込むように昂太を押し倒し、そのまま情熱的な口付けをする。


 つもりだった。


 乾は今朝昂太に抱きつかれた時同様、しばらく言葉を失った。

 乾より先に、


 昂太 が(・) 乾 を(・) ひっぱり(・・・・) 倒した、のだ。


 仰向けになって目を真ん丸くした乾の上に、昂太がちょこん、と乗っかっている。

「せんせーがしてくんないなら、オレがやっちゃうから」

 ――えっ……

 乾が正気を取り戻す前に、昂太は唇を乾のそれに押しつけていた。

 ――いつの間にこんなことできるようになったんでしょう……

 ぼんやりと思う乾の口の中を、昂太の舌がはいまわっていた。

 ――以前は、私のキスにむせ込んでいたほどの昂太君が……

 乾は恍惚として、思わず目を閉じそうになる。

 わずかに開いた細長い視界の中、ぎゅっと目を閉じた昂太の顔が見える。

 彼の表情を見て、乾は確信する。

 ――楽しんでるというより、必死になってる感じですね。……やっぱり、昂太君にはまだ無理みたいですね。

 乾は左腕で昂太の腰を抱き、右手でベッドを叩いた。

 たちまち二人の上下が逆転する。

 今度は昂太が――ちょっとだけ――目を見開いた。

 乾は昂太の表情を楽しんでくすりと笑った。

「昂太君にはこっちの方が似合ってますよ」

 そう囁きながら、手をすばやく動かして昂太のシャツのボタンを外し、ベルトを外す。

「でも……」

 昂太が上気した顔に不満を浮かべる。

「どうしてもというなら、まずは私の講義が終わってからにしましょうね……」

 これから至福の時間が始まる――







 が、やはり、


 星のめぐりも「タイミングめちゃ悪」な乾の字画相には勝てないわけで……








 ばん!

 突如びっくりするような音を立てて寝室の扉が開いた。

「講義なら学校でやって下さいね、乾先生!」

 そこに仁王立ちしていたのは、乾の天敵、根性ひねくれ性悪保健医、有馬巽であった。

「有馬先生……思い切り不法侵入ですね」

 乾は昂太の露になった肌を自分の体で隠し、巽をにらみつけた。

 巽も乾を睨み返し、

「二人そろって無断欠席だというから不審に思って来てみれば……あなたこそ生徒強姦の現行犯じゃありませんか?」

「強姦とは失礼ですね。私は――」

「そんなんじゃないやい!」

 乾の言葉を遮ったのは昂太だった。

 巽の表情が変わるのが、乾にはよく分かった。

 明らかに動揺する恋敵を見て、乾は内心ほくそえんだ。

 ――昂太君はもう私のものなんですよ……。

 その自信で。

 が、次の昂太の言葉には、乾も表情を変えずにはいられなかった。

「乾せんせーはオレのものなんだからなっ!」


 巽がひっくり返り、

 乾はきっぱり断言した昂太の顔をまじまじと見つめた。

 ……本気の目だった。


「今だってオレがせんせー押し倒して……」

「い、いや、どー見てもお前の方が押し倒されて……」

 巽は壁に手をつき、ふらふらと立ち上がりながらつっこむが、

「錯覚だ!」

 きっぱり。

「有馬先生! ひるんじゃ駄目です! 昂太は乾先生の黒魔術に操られて心にもないことを言ってるんです!」

 部屋に第四の人物が飛び込んできて叫んだ。

「な、夏希! お前ついてきてたのか!?」

「はい! 先生の車のトランクに……そんなことより早く、コータが真に愛する有馬先生の目覚めの口付けでコータを正気に……」

「真に愛してなんかいるかーっ!」

「もー。先生ってば、また照れちゃって〜♪」

 第五の人物登場。

「さ、桜ちゃんまで……」

「乾せんせー。むこーはむこーで盛り上がってるみたいだから、続きやろ、続き!」

「えっ!? わ、私としては、こういうムードのかけらも何もない状況ではちょっと……」

「いーから、いーから♪ せんせー」

「あっ、こ、昂太君――」














 窓の外に、一人の魔法使いの少年がいた。

 彼は呟いた。

「この魔法、自分にかけるか……」


                      < 子犬はきまぐれ : 完 >

 当時のあとがきによると・・・なんか、「勘違い」があって書くことになった
「コータ×わんちゃん編」、だそうです。

↑何があったか思い出せないようなもの上げるなよ、お前・・・。

当時、登場人物の名前の字画占いとかしてたんですが、
乾先生の結果、おもしろいことになってたんですねぇ・・・。しみじみ。


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